「……16区の反乱が起こる少し前、儀式屋は一人の少年を捕まえた……何、それはあの男の、いつもの悪趣味な“お遊び”のつもりだったわけだ。心が死にそうな人間をこちらへ堕ちるよう仕向け、いたぶり、己の暗い欲求を満たすためだけのな」
やや儀式屋のことを馬鹿にしたような口調に、ヤスは両眉を中央へ寄せた。
だが、儀式屋のそうした所業は、確かに知っているため、何も言い返せなかった。
ふんっと、アンソニーは鼻を鳴らして先を語る。
「だが、何が起こったのか、お遊びには使わず、自分が今まで集めた花の管理者として側に置いた。花は、その頃は魔術師ではなく、あの男を呼び出すためのものだったからな」
「…………」
「人の強力な願いが込められた花は、恐ろしい程の魔力を持った。儀式屋は、それらが悪用されぬように、何処かへ隠すことにした……そこで彼は、拾ってきた少年の中へその花を隠したのだ」
「?どうやって隠したんですか?」
「簡単なことだ。少年に食べさせたのだよ」
にやりとして答えたアンソニーに、ユリアは口をぽかんと開けた。
本当に文字通り食べさせたのだ、と彼は繰り返した。
「願いが込められた花を、少年は食べさせられ続けた。そうして、いつの間にか魔力が少年の体を蝕みだし、少年は生ける魔法の源となった。その力は、儀式屋と互角なほどだったと言われていたな」
「そんなに……」
「恐ろしいことだ。あんな男、二人もいては困るというものだからな」
そういう意味で言ったつもりではなかったのだが、とユリアは思ったが反論するのは控えた。
珈琲を一口啜り、乾いた口内を潤してからアンソニーは続けた。
「やがて、何処から漏れたのか、その力を嗅ぎ付けた者たちが、忍び寄ってきた。ミュステリオン、悪魔、精神世界に潜む人間……だが、決して少年は力を貸そうとしなかった。また、その力を自分のためにも扱おうとはしなかった」
「…………」
「少年は確かに魔力に体は蝕まれた。だが精神まではいつまでも少年自身だった。だから少年は、『儀式屋』で生きることに満足していたし、それ以上を望まなかった。ただ、『儀式屋』で平穏に過ごすことが出来れば良かったらしいな」
「……でも、その少年は今、うちにはいないっす」
「そうだ」
ヤスの言葉に頷き、そして少しの間を置いた後、アンソニーはユリアに向けて呟いた。
「ある日突然、その少年はいなくなってしまった。16区の反乱が起きている最中にな」
「え、何でですか?」
「さて、そこまでは分からん。ただ分かっているのは、少年がこの時に初めて魔法を使い、儀式屋がいかなる方法を用いても、見つけられなくなるという魔法をかけた、ということくらいだ」
「……………」
「それ以来、あの男の目的はただ一つ。その少年を再び探し出すこと……理由は知らんがね。だが今、ことが荒れれば、それどころじゃなくなる。だからミュステリオンに出向いたのだろう、というわけだ」
長々と話し終え、アンソニーは再度珈琲に口付けた。
たった今語り聞かせた話は、自分があの男自身から探り出せる限り探り出した答えだ。
アンソニーの瞳を用いれば、もっとその真実を探り出せたはずだったが、彼はそれ以上の探索を途中で止めた。
真実が求める以上に次々と溢れ出し、とてもではないが受け止めきれないと感じたのだ。
あの男の中は、いわば底なし沼だ。
探れば探るほど、どんどん深みにはまり抜け出せなくなってしまう。
そうして永遠に堕ちるとこまで堕ち、そして気まぐれに自分を蝕まれて、気付かぬ間に終わるのだ。
薄ら笑いを浮かべたあの顔の裏には、そんな狂気が潜んでいる。
この執着心の塊ともいえる自分を、いとも簡単に黙らせた男──儀式屋。
深淵を覗き込めばたちまち突き落とされ、二度とは日の目が見られぬ、そんな要素を持った男が、一癖も二癖もある奴らすらも巧みに操ってみせる男が、ただ静かに世界に潜んでいる。
だからこそ──
(あの男は、恐ろしい)
ぞわり。
滅多に感じない怖気が、背筋を這い上がった。