鑑賞会に来てくれたうちの1人がTHE FIRST SLAM DUNK初見でリョーちんと同い年の息子がいる母。
終わった直後の感想が『あのお母さんが悪いな』だった。
カオルさんの事を考える時、私はどうしても夫と子供を立て続けに失ってこれ以上の悲しみがあるだろうか、生きているのも辛いだろうと同情した。
それでも何とか生きているのはリョータとアンナがいたから。
でも事あるごとにソータの存在を想起させるリョータにイライラして当たってしまい、2人は上手く行かなくなってしまうと…。
でもそれは別にあんたが死ねば良かったとリョータに思ってるわけでは勿論無いし、そんな事はリョータも理解してるわけで。
でもそうとしか見えないって、そう受け取っても仕方ないという意見もあり。
一方リョータの事を考える時、お父さんが亡くなった事は正直よくわからないというか、勿論悲しいんだけどどこかピンと来ていない感じあるでしょ。
でも絶対的な存在だったソータが『いない、いなくなった』という現実は、幼いリョータに死というものを突きつけるには十分だったわけじゃん。
逆にそれで父が死んだことも理解するというか。
リョータはソータを感じたくて部屋に入りソータの物を身に着けて、ソータが感じていたことを吸収しようとする。
でもカオルはその行動を後ろ向きと捉え自分が一番辛いのにという苛立ちをぶつけてしまう。
これはとにかく死への向き合い方が違うわけで。
ずっと傍にいたい、忘れたくなんか無いし存在を感じていたい=悲しんでないわけではないけど悲しみを表す行動ではないリョータ。
リョータの行動でソータの死を突きつけられている気がして、リョータとソータの死を切り離したいカオル。
多分…多分親として子を失うというのは想像し得る限り最悪のストレスだろうから、実は一番『ソーちゃんは遠い島で1人で暮らしてるの、今』と信じて心の均衡を保っていたのはカオルだったのかも。
ソータは長子としてもいい子だったんだろうけど、父が死んだ時にオレたちで母ちゃんを支えないとって言われてたのはリョータ。
やはり結局はソータの教えでずーっと生きていたリョータが母に働きかけて、だからあの最後がある。と私は思う。
9歳の時点で母も人間だもんなぁ、辛いに決まってるよなぁなんて許容できるはずもなく、ボクはかわいくないんだ…要らないんだ…って思ったって仕方ない。
兄貴の代わりにはなれないサァはリョータにとっちゃさらに自分の価値を下げるきっかけとなる。
リョータの代わりだっていないのに。
ソータの死で極限まで低下したリョータの自己肯定感はバスケによって息を吹き返して、それは皆にちゃんとしろよというソータからのメッセージにも思える。
バスケを通してソータと対話していたのかもしれないけど、リョータ自身もバスケが大好きだったんだと思う。
人の教えって自分の根幹を成すものだと思うけど、でもやっぱり最後は自分なんだよね。
いつも思い出すのはむかーし大好きだった人の言葉。
『一緒に練習して、オレはお前を強くすることができる。でもコートで試合すんのはお前だぞ』っていう。
人生も一緒で、色んな人から色んな影響を受けながら生きてるけど頑張るのは自分、考えるのは自分、行動するのは自分。
これは私の礎だな。
でもあの言葉より前にそんなようなことをスラムダンクが教えてくれてて、あの言葉で明確になったんだ。
スラムダンクは日常のあちこちに散らばってる教えのヒントをくれてて、教えの解像度をぐっと上げてくれる教典なんだ。
カオルとリョータの関係性はもっとずっと複雑だし難しいんだけど、それでもやっぱり自分で答えを導き出したリョータの姿に、改めてスラムダンクのブレないメッセージを感じたのでした。

カオルが悪いっていうそのお母さんの感想で、改めてスラムダンクの偉大さを思い出した。
いや〜でもカオルさんはキツイよねぇ。泣
神奈川に来てちゃんと2人を育てたわけだし、そこの愛情っていうのが確かに伝わっているからこそのリョータの手紙ではあると思うよね。