夢を見る。
何度も、何度も。
悪夢に違いはないけれど、頬を濡らして目覚めることはもうなくなった。
その夢は、記憶を鮮やかに塗り直す。
悲しみを、恨みを、憎しみを、忘れるなと。
己が進む道を忘れるな、と。
***
我が生まれ育ったのは、裕福な家庭だった。
幼い頃はただ父が商い上手なだけだと思っていたが、やがてそれは誤りであると理解した。
父は確かに商人"でもあった"。
あくまでそれは表向きの顔。
人好きのする笑みを浮かべ、商いをするのはあくまでも表の、昼の姿。
その真の姿は違法の薬や武器、時に人すらも売り買いする組織の頭領であると理解したのは、妹が生まれる少し前だったか。
元々厳しい父ではあった。
礼儀作法の類は文字通り叩き込まれたし、人見知りなどしないように教え込まれた。
誰にでも笑顔で話しかけること、話の中で相手の情報を聞き出すこと。
幼い頃から日常生活の中で当たり前のように訓練されていたということを理解した時はぞっとした。
父は我に普通の道を歩ませるつもりなど最初からなかったらしい。
その理由は偏に、我の能力故だった。
幼い頃から魔力が強かった。
自身の力を強化する術もすぐに覚えた。
何より……呪符に力を込めることによって出来ることが多かった。
我が作った呪符で生き物の死体を動かすこと……僵尸を作ることが出来る人間は決して多くないのだと言って喜んでいた。
……その喜びの理由も、我は全く理解していなかった。
我のその魔術を見た父が珍しく上機嫌であったから、これならば叱られることもないなと安堵した程度だ。
魔力の質は、父よりも母に似たという。
母は魔力こそ強いけれど体の弱い女(ひと)で、妹を生んですぐに亡くなった。
勿論哀しかったけれど、それよりも先に、生まれたばかりの妹を守らなければならないという想いでいっぱいだった。
恐らく、自身の死を理解していた母に言われた言葉が理由だろう。
―― 倫は兄になるのですから妹を良く守ってあげるのですよ。
その母の言葉と表情の意味を理解したのは、妹が三歳になった頃だった。
もし父の意図を全て理解出来ていたなら、例え殺されかけようが、その命令には従わなかっただろう。
我は家から離れた土地で商いと魔術の勉強をすることになっていた。
それがお前の将来のためだと言いくるめられ、幼い妹と離れ離れになった。
きちんと学び、成長すること。
それが家を守ること、家族を守ることに繋がるのだと諭されて。
家族を……妹を守るためならば。
そう思って、まだ幼い妹を父と乳母とに託して家を離れた。
それから二年。
家に帰った我は、言葉を失った。
妹……麗花は自らの足で歩く術を奪われていた。
否、正確に言えば多少は歩ける。
しかし、足の指を変形させられた小さな小さな足では、満足に歩むことなど到底できないのだ。
何故かと我は父にその時初めて食って掛かった。
纏足の文化はとうに廃れたものと思っていた。
一部地域、或いは一部の階級……高い階級の人間には、そんな残酷な時代の遺物ともいうべき小さな足の娘を好む傾向が残っているようではあったが。
しかし、好かれるからと言って気楽に取り組むことが出来るようなものでないことは男である我もよくよく理解していた。
父は我を殴り飛ばし、言った。
彼女に纏足を施したのは彼女のためだと。
彼女が良い家に貰われていくために必要なことなのだと。
母に似て体が強いとは言い難かった彼女を幸せにするためにはこうするしかないのだと。
もう父に言いくるめられるような歳ではなかった我は理解した。
それは詭弁だと。
父の目がさらなる地位と富への渇望で濁っていることをすぐに理解した。
嗚呼、駄目だ。
このままでは、駄目だ。
父親(このひと)の下に居たのでは、我は、妹は幸福(しあわせ)にはなれない。
強く、ならなければ。
殴られた我を見て泣きじゃくる妹を見ながら、我は改めて決意した。
妹を守るために、強くなるのだ、と。
***
それから我は父に従順に従った。
教え込まれることは何でも吸収した。
武術も極めた。
魔術も極めた。
商いの術も身に付けた。
そんな我を見て、父は"良い後継者になる"と喜んだ。
妹は心配そうにそんな我を見ていたけれど……心配いらないと、父が居ないときに笑いかけた。
妹は、それを信じてくれた。
彼女はいつも我に言っていた。
"私の知らない兄様にならないで"と。
どうか、私を置いていなくならないで、と。
それはきっと、父に従う(ふりをして)我が危険な仕事をすることへの心配だったのだろう。
実際、怪我をして帰ることもなくはなかったから。
我はその言葉にいつでも笑顔で頷いていた。
「我はずっと、麗花と一緒に居るよ」
キミを守る。
キミが誰よりも、何よりも大切な宝物だから。
そんな我の言葉に、彼女は少し困ったように、照れたように笑っていた。
***
いつのことだったか。
纏足もすっかりなじんでしまって、椅子に腰かけて刺繍などをすることにも慣れた妹に土産を買って帰ったことがあった。
「兄様」
我が家に帰ると妹は嬉しそうに笑って迎えてくれた。
「ただいま、麗花。父様は?」
家の中に気配がない。
そう思いつつ問えば、妹はフルフルと首を振って、言った。
「お勤めだと思う。暫く前に出て行きました」
「そうか。じゃあ丁度良かったな」
父が居る前では渡せない。
こんなくだらないものを買ってくるなと取り上げられるのが目に見えている。
そう思いながら、我は硝子の茶壷と杯を用意した。
そこに湯を入れて、彼女が居る机に戻る。
「?なぁに、それ」
不思議そうに首を傾げる彼女の前で、湯の中に小さなつぼみを放り込む。
……それが花開くさまを見て、彼女は綺麗な翡翠の瞳を大きく見開いていた。
「わあ……!」
無邪気に笑うその様は、今でも覚えている。
その笑顔を守らなければと、強く強く思った想い出の一つだ。
あの子を守るためならば。
あの子の幸福のためならば。
我はどんなことだってしてみせる。
ヒトがその行為を魔鬼(あくま)と罵ろうとも、石を投げられようとも。
きっと我が守りながら、幸福にして見せる。
そう思っていた。
……ずっと、そう思っていたのに。
***
父に任されていた"表の仕事"を終えて、家に帰った時だった。
父は"裏の仕事"で出かけていて、家には居ない。
それを知っていたから、我はあの子への土産にまた工芸茶を持って帰った。
二人で一緒にお茶をしようと、そう思って。
帰ったよ、と声をかけても返事がなかった。
可笑しいな、と思いながら我は家に入った。
眠っているのだろうか。
少し帰りが遅くなってしまったから。
そう思いながら、彼女がいつも居る部屋に入って……
刹那。
数秒、呼吸を忘れた。
部屋の中は、荒れていた。
棚の上の物は床に落ち、机の抽斗の幾つかは開いたままになっている。
几帳面な麗花は絶対にそんなことをしないのに。
物盗か。
だとしたら、麗花は?
満足に身動きが出来ない彼女の姿が見えないのは……?
まさか、攫われたのか。
そう思うと同時に、探していた姿を見つけた。
「麗花……!」
彼女は、床に倒れていた。
眠っているだけだと信じたかった。
駆け寄って、抱き起こす。
冷え切った体は既に固く。
閉ざされた瞳は、もはや見えず。
さらり、と流れた銀の髪が月明りに煌めいていた。
「嘘、だろう……」
どうして。
誰が、こんなことを。
そんな掠れた言葉は、誰に聞かれるでもなく、宵闇に溶けていった。
***
「麗花」
そっと名を呼ぶ。
髪を撫でてやれば、まるで子供が目を覚ますようにゆっくりと、瞼が上がった。
瞬く瞳の一方は、彼女の元々の瞳と同じ緑色。
もう一方は、紫色。
美しい硝子でできた瞳は、彼女の元々のそれではなく、視力もないけれど……
「早上好(おはよう)麗花……」
そう呼びかければ、彼女はそっと頷いた。
「まさかこの術が役に立つなんてね」
そう言いながら、そっと彼女の額に貼り付けた札を撫でる。
きらりと、彼女の胸元の翡翠が煌めく。
彼女の心臓。
ヒトならざるものになってしまった、彼女の……
「綺麗だよ、麗花」
どんな姿になっても、妹は美しいままだ。
美しいままの僵尸に我がした。
このままにしていたらきっと彼女は埋葬されてしまう。
そうなれば彼女と共にいることはもうできない。
「ずっと一緒だと、約束したから」
それは、彼女の言葉を都合よく解釈した、我の我儘だった。
共にありたいと願ったのは、他でもない我だ。
けれど、そんな自分の思いに尤もらしい理由をかぶせて。
我は、彼女を蘇らせた。
"生まれたばかり"の彼女は言葉を話せない。
体もまだ硬直したままで、満足に動くこともできないだろう。
そんな彼女を抱きしめて、我は呟いた。
「赦さない、赦すものか……」
荒れ果てた部屋の惨状。
床に倒れ伏した妹。
この状況を作った人間を赦しはしない。
家の中に、魔力の痕跡はごく僅かにしかなかった。
ただの空き巣や居直り強盗などではないはずだ。
父の"同業者"の可能性もある。
ならば。
取るべき道は。
「どんな手を使ってでも、キミを殺した奴を探し出す。我の可愛い妹……」
だから、どうか。
キミと共にありたいという我の我儘を、赦してほしい。
そんな身勝手な想いを抱きながら、まだ硬い妹の身体を強く抱きしめた。
―― 三叶草の誓い ――
(キミに幸福を。仇に復讐を)
(我儘なのはわかり切っている。それでも、我は……)