「はーい、じゃ、乾杯!」
ノリの良いアンバーの声が響いて、
ディアロ城の騎士の棟の一室……宴会場は賑やかになる。
響くのは騎士たちのお喋り。
普段あまり顔をあわせない他の部隊の騎士とも、
いつも顔を合わせている同じ部隊の騎士とも様々な会話をする。
とりとめもない会話、賑やかな笑い声。
既にアルコールが入っている者も多く、次第に騒ぎは大きくなっていった。
そんな中にやや不機嫌そうにいたのは、亜麻色の髪の騎士。
アルコールが苦手な彼は早々に退出したいようだが、
そのきっかけが掴めずに未だ此処にとどまっていた。
さて、どうしたものか……と視線を泳がせた先にいたのは、
黒髪に空色の瞳の彼……ヒトラーで。
「ヒトラー様……?
珍しいな、いつもクビツェクや夜鷲の騎士と一緒なのに」
フィアは思わずそう呟く。
いつも彼はこういう飲み会の時、夜鷲のテーブル周辺にいる。
しかし、今ヒトラーは一人でテーブルのひとつのところにいた。
そこにいるのは彼の親友のクビツェクでもなければ、
彼になついているゲッベルスでもない。
寧ろ夜鷲の騎士でさえなく、顔に見覚えがないところからして、
水兎か風隼の騎士と思えた。
直接関わりのない騎士でも、
ヒトラーの統率力に尊敬の意を示している者は少なくない。
恐らく、この機会に声をかけてみようと思った騎士たちなのだろう。
ともあれ、彼の傍にクビツェクがいないのは珍しい。
今日は結構な騎士があちこちのテーブルに出ているため、はぐれたのだろうか……
フィアがそう思ったとき。
「……?」
フィアはヒトラーの様子が少しおかしいことに気がついた。
グラスを手にとって飲んだ瞬間に少し表情がひきつったのが遠目にもわかって……
一瞬、何が起きたのかと怪訝な顔をしたフィアだが……
すぐに、その要因を理解した。
飲み会、という時点で酒を飲んでいる者が多い。
一応普通のジュースも用意されていて、
フィアやアルのようにそれを飲んでいる者もいるのだが……
問題は、グラスがすべて同じなのだ。
その所為でフィアも何度か酷い目に遭っている。
「ヒトラー様!」
フィアは彼の名を呼んで、駆け寄った。
彼の傍にいた騎士たちはヒトラーの様子と
フィアの少々焦った声に戸惑いの表情を浮かべる。
ヒトラーは名を呼ばれると、フィアの方を向いて首をかしげた。
その頬はほんのりと赤く染まっていて、
空色の瞳はぼんやりとフィアの方を見つめている。
フィアはヒトラーが先程口をつけていたグラスを手にとって、軽く匂いを嗅いだ。
なかに入っているのは普通のジュースに見えるのだが、匂いは完全にアルコール。
恐らく、途中でグラスを取り違えたのだろう。
「ああ、やっぱり……」
フィアはそう呟いて、額に手を当てた。
ヒトラーもフィアに負けず劣らずアルコールに弱い。
いつもは傍にいる誰かが気を付けているのだろうが……
今は一人でいたために気づけなかったのだろう。
うっかり飲んでしまったようだった。
周囲にアルコールの匂いが満ちているため、
自分の持っているグラスの飲み物の匂いか否かは相当気を使わないと分からない。
「ヒトラー様、大丈夫ですか……?」
フィアはおずおずと彼に声をかけた。
ふわふわとした視線がフィアを捉える。
「フィア……?」
どうした、と訊ねる声に、普段の威厳はない。
何だか気の抜けたような、柔らかい声だ。
あぁ、完全に酔っている。
フィアはそう思い、辺りを見渡す。
彼の扱いに一番なれているであろう親友の姿を探すが……広い会場一杯の騎士。
見つかるはずがない。
「フィア?何を探して……っ」
ふら、と一歩踏み出したヒトラーの体がくらりと傾いだ。
フィアは慌ててそれを支える。
まわりにいる騎士は一体何が、という顔をしている。
「あぁ……もう、駄目だ。
とりあえず、部屋につれて帰ろう」
フィアはそう呟いて、ヒトラーを抱き上げた。
長身の彼だが、抱くのに支障がないほど軽い。
それはそれで少々不安がある気がするが、今はそれはおいておくしかない。
「おい、クビツェクを見かけたら、俺がヒトラー様をつれて部屋に帰ったと伝えてくれ。
極力早く帰ってきてくれ、とも」
周りの騎士にそういうと、フィアはヒトラーを落とさないようにしっかりと抱いた。
所謂、お姫様だっこの状態で。
そのまま彼はゆっくりと歩いていく。
「おいおい、立場逆だな、フィア……」
フィアをからかうようにそう声をかけてきたのは、赤髪の少年……アネット。
その言葉にフィアは眉を寄せて、素早く周囲に目を走らせた。
立場が逆、という言葉の意味がわかるのは騎士のなかでも一部の人間だけだろう。
フィアの性別を知っている人間にとっては、この光景は不思議なはずだ。
普通ならば、"男である"ヒトラーが"女である"フィアを抱き上げるだろう。
しかし、今はそれが逆だ、とアネットはいっているのである。
フィアは呆れたように溜め息を吐いて、彼をジト目で睨んだ。
「いってる場合か馬鹿者。酔っぱらい」
「うわ、ひでぇ言いぐさ。俺まだ酔ってねぇよ?」
アネットはそういって苦笑する。
フィアは小さく息を吐くと、もう一度ヒトラーを抱き直してから、
今まで他の騎士に告げてきたこととおなじことをいって歩きだした。
腕の中のヒトラーは小さく息を漏らしては、親友の愛称を紡いだりしている。
酔っぱらって何かの枷が外れているんだろうな、とフィアは思った。
酔っているときには普段抑制していることが表面化するというよな、と思い出した。
いつも皆の先に、上にたつヒトラーは多少甘え上戸にもなるのだろうか。
そんなことをおもいつつ、フィアは人の波を避けて、
ヒトラーの自室に向かって歩き出した。
***
―― そうして辿り着いたヒトラーの部屋。
フィアは彼をベッドに下ろすと、小さく息を吐き出した。
ヒトラーは眠たげに目を擦っている。
「ヒトラー様、とりあえず水……水を、飲んでください」
こういうときは水を飲ませるものだよな、とフィアは思う。
慣れない人間が急に酒を飲むのは良くないとアルが言っていたのを思い出して、
若干不安にもなっていたのだけれど、
今のヒトラーを見る限り、具合が悪そうではない。
明日の朝ひどいことにならなければ良いけど、と思いつつ、
フィアはグラスに水を汲んでヒトラーに渡した。
彼はやはり夢うつつの状態でフィアが差し出したグラスを手に取る。
「ん……」
グラスを傾け、飲もうとするヒトラー。
しかし、既に若干意識が虚ろなのか、水がこぼれている。
ぽたぽた、と口元からこぼれる水。
フィアは苦笑して、それをぬぐった。
「ほら、こぼれてますよ……」
「ん……ごめん、フィア」
ふわふわした声。
いつもより少し崩れた口調。
どこか幼く感じる彼の表情に、フィアは微笑む。
何だか可愛らしいな、と呟いた。
普段の威厳を持った、統率者の顔とは違う。
どこか幼さの残る、年齢相応な表情。
以前一度フィアが"ヒトラー様が兄ならばよかった"といったとき、
ヒトラーが自分より年下であったことに改めて気づいたのだけれど、
今の彼を見ていれば、自分より年下であることを理解出来た。
普段こそ自分よりずっと強く、ずっと勇ましい彼に見えるが、
その実はまだ、彼も自分とさして変わらぬ年なのだ。
そう実感して、なんだか嬉しいようなおかしいような気分になる。
ともあれ、とフィアは息をついた。
彼を宴会場から連れ出したまではいい。
しかしこのまま、というわけにもいかない。
自分では彼への対処にも限界がある。
「じゃあ、俺は広間に戻って……」
クビツェクをさがしにいきます、とフィアはいいかけた。
自分が見ているより、クビツェクが一緒の方が良いだろう、と。
しかし、そんな彼の手首をヒトラーがやんわりと掴んだ。
いかないで、というように。
ベッドの方に視線を向ければ、子供のようにフィアを見上げる空色の瞳。
フィアはそれを見つめ返すと、諭すようにいった。
「……ヒトラー様、甘える相手を間違っていますよ……」
「んん……」
小さく声を漏らすヒトラーはゆっくりと首を振る。
間違えてはいない、と言いたげだ。
恐らく、一人でいるのは不安なのだろうとフィアは思う。
そして小さく息を吐き出すと、彼のベッドサイドに向き直った。
この状態の彼を引き剥がしておいていけるほどフィアも薄情ではない。
「……ならば、クビツェクがくるまで、俺が此処にいます」
フィアがそういうと、ヒトラーはほっとしたように笑った。
赤く染めた頬。
細められる空色の瞳はアルコールのためか、少し潤んでいて。
彼の無邪気な笑みに、フィアは微かに頬を染める。
「……クビツェクの気苦労がわかるな」
ぼそり、とフィアは呟いた。
これだけ綺麗な人だ。
興味を持つものも少なくないだろうに、と。
おかしな人間に目をつけられないか、不安になる。
これはまるで恋人を見る男性の心境なのだろうな、と自分で思ってフィアは苦笑した。
先刻のアネットの言葉がよみがえる。
下手な女性よりも可愛らしく、美しい彼。
既に眠ってしまったのか目を閉じていた。
長い黒髪はベッドの白いシーツに広がり、
いつの間に流したのか涙が一筋、赤い頬に流れている。
微かに開いた口から零れる吐息はまだ僅かいアルコールの香りを滲ませていた。
お伽噺に出てくる姫君のような、美しい姿。
それでありながら、何処か愛らしさもあって。
ああ、守りたい。
フィアは無意識に、そんなことを思った。
この、無防備な寝顔を守れるような騎士でありたいな、と。
「ふ……本人にいったら全力で否定されそうだな」
フィアはおかしそうにそう呟いた。
ヒトラーがちゃんと起きている時にそんなことを言えば、
"私も男だし騎士なのだから守られるばかりでは……"というだろう。
けれど、今の彼はすっかり夢の中。
きっと、酔いが醒めるまで熟睡だろう。
「……お休みなさい、ヒトラー様。
俺が、今は此処にいますから」
そんなことをいって頭を撫でてやれば、心地よさげに息を漏らす彼。
そんなヒトラーを見て可愛いと呟いて、フィアは微笑んだ。
―― 守りたいヒト ――
(女であるとか男であるとか関係なしに庇護欲が煽られる人だ
何処までも儚げで何処までも優しくて何処までも綺麗な人だから)
(夢うつつのなかでゆっくり頭を撫でてくれている掌
いつもの親友のそれとは違ったけれど何故か安心出来て…)